除染活動に行った話

雑記

今から4年前の2015年、私は福島県にいました。
1ヶ月半の間に色々なことがあり、果たしてどういう切り口で書いたら良いのか悩みますが、淡々と書いて行こうと思います。

起業しようと考えて休学した2015年、全てが上手く行かないまま打ちひしがれ、気が付いたら結婚式場でアルバイトをする夢も希望もないフリーターになっていました。
お金も余りなく困っていたところ、とにかくお金を稼げそうな仕事として除染活動の話を聞きました。
意識が高い人がボランティアで福島に行く中で、私は単純にお金目当てで福島に行くことに決めたのです。
原発事故から暫く経っていましたが、放射線による健康被害への懸念や余震による被災の可能性も十分にありました。
しかし行く先が見えないどんよりした毎日から抜け出すためには、何かアクションを起こさないことには何も変わらない、前に進めないと考えていたのです。

思い立ったが吉日ということで急いで求人に応募し、福島県の南相馬市に行くことが決まりました。(健康診断の結果を提出したり、契約書を提出したりといった手続きが事前にあった気がする。)
それまで半年ほどお世話になっていた結婚式場の人々には除染活動をするなんて言ったら心配されそうだったので、適当に誤魔化して退職しました。(逆に訝しがられたかもしれないけど。笑)
親には福島に向かう数日前くらいには話をしたと思います。ごちゃごちゃ言われるので実家暮らしは不便だなあくらいの認識っだったと思いますが。

そして相変わらず若干の体調不良の中で荷造りを済ませ、福島に行く当日を迎えました。
生憎の天気はどんよりとした私の心を写し出しているようでしが、不安と若干の好奇心の中、栗橋から宇都宮まで在来線で行き、そこから新幹線で郡山駅に行きました。

郡山駅前でお迎えに来てくれる会社の人と落合い、ワゴン車で事務所に向かいました。
ちなみに私が応募したのは元請けからすると4次会社だったようで、郡山駅にあるその建設会社は2次会社でした。
後からどんどん分かることになったのですが、建設業(除染業)はシステム屋(SIer)と同じで多重請負構造になっており、ピンハネがそこらじゅうで蔓延する残念な仕組みになっていたのです。

事務所には私と同じタイミングで除染活動を始めるオジサンたちが5人くらいいました。
それまで働いていた工場をクビになった人、ひねくれ者のオジサン、ヤクザの親分みたいな人…
真っ当な仕事にありつけないオジサンがたくさんいました。

事務所の人から簡単なガイダンスを受け、契約書を交わし、その日の宿に向かいました。
そして翌日、事務所の人の運転で、私が暫く住むことになるプレハブ小屋に向かいました。
プレハブ小屋の集落は広野町にあり、広野ビレッジと呼ばれていました。
福島Jビレッジのお隣にあり、原発までは約20kmという好立地?になります。(Jビレッジは「もう帰るんですか!」で有名な菅直人さんが降り立ったことで有名です。)
小屋の周りにあるのは広野発電所、太平洋、不通の常磐線という感じで、コンビニまで行くには車が必要でした。

プレハブ小屋は一人一部屋与えられ、空調、ベッド、窓付きの四畳半、共同使用のトイレ、風呂、食堂、洗濯機などがありました(建てられたばかりで、意外と建物自体はキレイだった)。
既に入居している人たちはだいたい40~60代のオジサンたちで、若干30代もいました。
全員が同じ現場に行くわけではなく、会社も色々。ひとつ言えるのは、20代の若者は私だけでした。

翌朝、キャラバンに詰め込まれ、現場となる南相馬市に向かいました。
広野町から南相馬市に行くには国道6号線と常磐自動車道があるのですが、その日は下道で行きました。
国道の真横には原発があり、窓を開けてはいけないと言われていました。(同乗しているオジサンたちはタバコが無いと生きていけないので、窓を開けてタバコの灰を外に落としていましたが。色んな意味で病気。)
国道6号線沿いは一般人立ち入り禁止区域になっており、そもそも酷いところは津波で全てが押し流され、雑草が茂る荒れ地になっていました。
骨組みだけになった廃墟や、除染作業で出たゴミの集積地、道を横断するイノシシや獣など、ニュースでも見ない福島の現状がありました。

その日は現場への入場の説明や、スクリーニング(汚染検査)で終わりました。
どの建設現場に入るにも新規入場の教育やら説明があるものですが、かなり時間を掛けて放射線計測器の使い方や、諸々の説明がありました。
そしてその翌日から実際に現場で働くことになりました。

続きはまた今度書きます。

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